tamatsubakikunのブログ

延々続ける自己紹介

このブログは本当に何ということはなく自分の思考を整理するために開設した。
他人を理解することは自分を理解すること、とかどっかの誰かが言ったようなありきたりな主張を持っているので、誰かが読んで何かに気づいてくれたら良いな、なんて、おせっかいな善意の押し売りもこもっていたりいなかったり。
そういうものの集合体となる予定の文章。



今日は(昨日は?)自分と他人について思いを馳せた。
デカルトの、我思う、故に我あり、という言葉にもあるように、この世で疑いようもなく確実に「有る」と言えるのは自身だけである。正しくは(自分は存在するのか?)と懐疑した自分である。

自分とはこの世界で唯一無二の存在であり、他ではないもの、というのが私の根底にある考えである。
よって私はとても利己的で他人との繋がりが希薄だ。

友情など何かがあればプツリと切れてしまう儚いもの。
家族も友人も、共通点や影響、関係があるだけで結局は他人である。
フォロワーなど、もはや娯楽を与えてくれる一つのツールでしか無い。
私は他人をそう思っているし、私自身もこれに当てはまる存在だと認識している。

だが、私は自他共に認めるほど「おせっかい」で「優しい」人間である。
勿論好いた人間に対して、だが。
それらは利己心からそうしているだけだ。
自分が「善良な人間である」という事実に悦を感じ、幸福感を得られる人間だからだ。
その時行った行為が裏切られようと、自分が利用されていようと、味わった悦は疑いようもなく本物である。自分が快感を得たと知覚したのだから間違いない。(デカルトはこの知覚すら否定してた気もする…)
つまり私は自分のために行っているのだ。この行動を他人がどう思おうと。

ここまでの文章を見返して、自分がいかに人生を楽しんでいるか、を自覚できた気がする。
世界の中心は私なのだ。
他人は自分とは完全に切り離された存在であり、それと関わる際に自分は幸福感を得るための行動を取り入れる。
上手いこと出来ている。
私の人の好き嫌いが激しい点を除けば。

他人を蹴落とすことに幸福を覚える人間だったらこうは行かない。
善良な性根に生まれてよかった。もしくは善良なしつけを受ける環境でよかった、か。
私の善性は生まれつきである説が親の話を聞いた私の中で生まれてきているので、性悪説は少し疑ってしまう。かと言って性善説も違うだろう。
とにかく私が私でよかった、ということだ。


私が私である。
この言葉を聴くといつも、それを定義できるものは何か。を考えてしまう
答えは「他人との違い」である、と私は考える。

この世に同一思考を持つ人間などいない。
全く同じ考えしかしない人がいたらそれはある意味でホラー映画だ。
他人との違いを認識することで、私は相手と違う「私」という存在だと実感できる。

特に、私の思いの詰まった意見に賛同を示した人間と、些細なこと、ちょっとした軌道の違いを感じた時は本当に嬉しい。
私と同じ意見を持ち、私と同じ立場に立っている。にもかかわらずそれは私に合わせている、盲目的に着いてきている、などではなく一個人として私の隣に立ってくれているということに違いないからだ。
そういう人間をこそ「仲間」というのではないだろうか。
仲間は他人が存在しないと形成し得ない共同体である。
「自分」とは絶対的に違う「他人」が存在しなければならない関係性。
他人と共存するためには自分の知らない、自分とは違う他人を理解することが不可欠である。
自分とは違う他人によって自己を確立し、他人を理解することによって自分を理解する。
仲間とはそういうものだと思う。

では自分と同一のものの集まりは何か。私は「群れ」と呼ぶ。
群れは、全く同一のものを貼り付けまくったものを呼称する際にも用いることができる。
群れでは方向性の違いや考え方の違いが認められない。

漫画なんかでよく見るドロドロした学校での女子グループを想像してもらえればわかりやすいだろうか。彼女らは「群れ」たがる。
同じ物を身に着け、同じものを貶す。そうすることで一体感を得て共存し、「仲間」を表面だけなぞる。
しかし他人を認める「仲間」と違いこの集団は「群れ」であるがために違いを持つ人間を排斥したがる。する。
「違い」は「自分」である。他人を認められない、つまり「自分」をまだ持てていない彼女らに、誰かのもつ「違い」の輝きからは自分たちに対する否定を感じるのだろうか。

わかりやすく極端な例で伝えたが、この「群れ」はいくらでもある。
ツイッターでちょっと自分の意見を言っただけでブロックしてくる輩も群れを形成している言えるだろう。
違いや否定を受け入れられない者は大抵そうだ。

しかし群れも悪い点ばかりというわけではない。
その中に望んで身を置いていれば、少なくとも否定を受けて傷つくことはない。
傷つかないのはとても良いことである。
(私は利己的かつ享楽主義なので、わざわざ怪我を負いに行く必要性を強調する人間が信じられない。)
群れの中には反対意見が存在しないため、その集団が大きくなれば大きくなるほど、その主張は強く、どんなに些細なことであっても無視できない存在になることができる。これは欠点にもなりうるが。

もっと良いところがある気もするが、私は群れが嫌いなので(自分の存在が揺らぐため)理解が足りていない。
違いを明確に感じ続けなくとも「自分」を保ち続けることができる、私とは真逆の考え方にとってはとても居心地が良いのだろう。

唐突な自分語りだが、私は小さい頃、本当に他人と自分の境界線がなかった。
今でもたまに揺らぐが、昔はひどかった。
神社で派手に転んだ際、膝がぶつかった石畳や、流れた血に溺れる蟻の思いを示唆され、たちどころに泣き止み痛みを想像し謝ったほどだ。
自分の痛みを忘れるほどの他社共感。これは共感と言うより、相手を自分だと思いこんでしまうが故に起こしていたアイデンティティーの喪失だ。

ある日、ある文脈から、母親が昔飼っていた小鳥の話をした。
母親の一家はその小鳥を非常に可愛がっていたそうだが、ちょっとした転倒のアクシデントにより、その小さな命ははこの世を去った。
母親はその時のことを淡々と語った。少し辛そうでもあった。
私は、当時の母、その家族、そして小鳥の思いを想像し、それに共感し、泣いた。苦しくて痛かった。
そんな渡しには母一言。
「当事者じゃないのに勝手に泣かんとって」
「あんたは私じゃない」

生まれ持っての善性は、相手の気持ちを想像し、思いやる(共感する)ことから発揮されていたため、私は今まで共感を悪いものとは思っていなかった。
だがその日、これは母を傷つけた。
この行動は、相手の思い出に、感情に、土足で踏み込んでしまったのと同義だったのだ。
私は衝撃を受けた。母の言葉は私にとっての大きなターニングポイントになった。

それから私は他人との付き合いや自分について、少しずつ思いを巡らせるようになった。
そして現在、結局たどり着いたのはこの一言。

「あなたは私じゃない」
違いの重要さを強調するための言葉だ。


目がしんどいので今日はここまで!生まれつきの目の弱さはどうにもならない!